“踊ること” で体感した「まつり」と「男性性 / 女性性」〜Movement Medicineリトリートからの学び その2

9月の3連休に参加した「Movement Medicine(ムーブメント・メディスン)」の3泊4日リトリート。4年にわたるインナー・ジャーニーの末たどり着いた濃密な4日間はわたしにさまざまな気づきをもたらしてくれました。

その1はこちら↓

思い込みのstoryを “踊ること” でぶち壊す 〜Movement Medicineリトリートからの学び その1

思い込みのstoryを “踊ること” でぶち壊していくのと同時に、わたしのからだの中に渦巻いて来たのは「男性性」とか「女性性」という感覚でした。

近年よく、「男性性と女性性の統合」なんていう言葉も聞かれます。それは自分の中のその二面性を統合する、という意味で用いられているようなのですが、世の中に置き換えたときには「男性性と女性性の調和」と言ったほうがしっくりくるかもしれません。

踊る中でその相反するエネルギーを体感したとき、わたしはこれまでのとっ散らかった人生で、もしかしたらこれをやろうとしてきたのかもしれない、ということに気づきはじめました。自分の前に立ちはだかる困難の数々。そして、世の中にある困難の数々。「男性性と女性性の調和」こそが、わたしが地球のお役に立つためのテーマかもしれないって。

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分断の世界と、男性性

戦後、日本は高度経済成長をどっぷりガッチリやりきり、なによりも経済優先、効率や合理性を優先した社会がつくられていきました。社会の中心は男性。女性は家を守り、その二つの性質は完全に分断されることが多かったことと思います。また、産業の発達で「会社」ではたらくひとが増えたのも特徴です。多くの時間を会社の中で過ごし、地域社会からどんどん縁遠くなっていった。ひとは都会を目指し、田舎との分断はますます広がっていきました。

これは日本に限らず、全世界的なムーブメントだったはずです。

今まで世代も性別もごっちゃでわやわやしていたカオスから、奪い合いの戦争に突入して、その後の高度経済成長期。世の中は「男性性」にぐわーーーんと傾きました。

その結果、どうなったか。
確かに、お金面での豊かさは実現されたのかもしれません。一方で、核家族化が進み世帯が小さくなり、子どもは子ども、お年寄りはお年寄りでいる場所が分けられ、働くひとは都心に集中。世界一の乗車率を誇る満員電車で通勤し、こころのシャッターを降ろしてなんとか耐え、もしくは殺気をプンプンにおわせてにらみをきかせて…なんていうことが “ふつう” になってしまった都市部。世の中が徹底的に分断された結果、「子どもの声がうるさいから保育園を建てるな」「お年寄りはクレーマーになるから関わりたくない」…などなど、お互いのことを知らないがゆえに起こる対立がそこかしこに現れています。昔はみんな一緒に暮らしていたので、子どもはワーワーギャーギャーうるさいし、お年寄りは話が長くて口うるさいというのは誰もが身に染みてわかっていたことなのに。

わたしも数年前まではその世界の端っこで生きていました。生まれ育った家庭から教えられた世界観もこのまんまだったし、その世界でどうがんばっていいのかもわからず走り続けた20代。でも、子どもが生まれてそこに戻ったとき、とてつもない違和感におそわれて、こころも壊れそうになっていきました。
こんな世の中で、いいんだろうか?わたしも、みんなも、しあわせなんだろうか?と…。

キャリアと育児の両立!みたいな雑誌の記事に載ったりしたこともあったっけ… なんか苦しかったあの頃。。

いま、世の中は「分断から調和へ」向かう

その違和感から考え続け、会社を辞め、足に導かれるままに旅して拾い集めたたくさんの出逢いや物語。古いパラダイムから新しいパラダイムに世の中が移り変わろうとする今、最後のあがきと言わんばかりに経済優先のリーダーが乱立する中、世界のあちこちでこの世の中をサヴァイヴする人たちと、同じような会話をしてきました。

分断から調和へ。
バラバラに分断された世の中を再びつなぐ。Re-connect のとき。

対立からはなにも生まれない。その先にある対話やコラボレーションから、お互いがそのままで、その個性を発揮しあいながらつくる世界が見たい。まずは自分の周りから、政府や世界に文句を言いながらも、しっちゃかめっちゃかな日常を送りながらも、「楽しい」を真ん中にその革命をはじめる同志たちと出逢い、つながってきました。インターネットの普及も手伝って、わたしたちは今まで見たことのないそのつながりがつくるパワーを目撃しています。

そして、この調和のエネルギーの手応えも、今回のMovement Medicine リトリートの中で感じることができたものの一つでした。

ベルリンで泊まったAirbnbの家主だったFranziskaとは少しの時間しか過ごせなかったのに意気投合。2年後に本当に東京に逢いにきてくれたね。

“踊ること” で体感した、男性性と女性性

今回のリトリートであったいくつかのワークの中で、わたしにとって一番大きなインパクトがあった「4 archetypes(4つの原型)」。自分を癒す “medicine” は自分の中にあり、その内なるシャーマンたちと出逢うために、部屋の中を移動しながら、そして踊りながらその感覚を体感していくものです。

部屋の東西南北にはそれぞれに、4つのエレメント(火・水・地・風)の祭壇がつくられています。方角にエレメントが紐付き、さらにそこにMovement Medicineとしての解説が入ってきます。本には詳しく解説が出てくるそうですが、残念ながら和訳はされていないので、わたしがその場で聞いて自分なりに解釈したものが以下です。

東:FIRE <火>
世界に見える姿は…
 Persecutor(迫害者・糺弾者)
 攻撃的、ジャッジメント、善vs悪、決めつけ、一方的、ダメージを与える、保守的
内なるシャーマン<medicine>になるならば…
 Dancing Warrior(踊る戦士)
 太陽、力強い、エネルギーに満ちた、守ってくれる、心強い、安心・安全

西:WATER<水>
世界に見える姿は…
 Victim(被害者)
 恐れ、不安、悲しみ、無力、どうせわたしは、かわいそうなわたし、被害妄想
内なるシャーマン<medicine>になるならば…
 Dancing Fool(踊る阿呆)
 いまここ、楽しもう!、生きてるじゃーん!過去も未来もない
 やっとさ〜やっとやっと〜〽︎同じ阿呆なら踊らにゃソンソン♩

南:EARTH<地>
世界に見える姿は…
 Hungry Ghost(飢えた亡霊)
 ないないない、もっともっともっと、足りない足りない、満たされない、むなしい
内なるシャーマン<medicine>になるならば…
 Wounded Healer(傷ついたヒーラー)
 天と大地・父と母をつなぐ、全てはそこにある、全ては与えられている、大地からの癒し

北:AIR<風>
世界に見える姿は…
 Rescuer(救済者)
 どうしたの?大丈夫?心配してるよ、助けてあげるよ、監視、過保護、気にしすぎる
内なるシャーマン<medicine>になるならば…
 Wise Elder(老賢人)
 いつもここにいるからね、助けが欲しければいつでも戻っておいで、信じてるから大丈夫

文字で書くとよくわからないと思うけれど、これを念頭において、音楽に身を任せて、部屋の中で場所を移動しながら、そのエネルギーを体に感じて踊り続けます。この4つ、全てが自分の内にあるものです。=4人の内なるシャーマンが自分の中に共存しています。

心の中に立ち現れるものは、ここでいう「世界に見える姿」。それを自分の中で<medicine>に変えることができれば、「内なるシャーマン」たちの力が借りられる。言葉で説明するの、難しい。。。わたしも解説を聞いている時は「ポカーン」「???」でした。しかし踊ってみると、ものすごく深く納得。

たとえば…

東:FIRE <火>の祭壇の前に行って体を動かしはじめたときに湧き上がってきたのは、やはり恐ろしかった父のこと。理不尽な暴力や押さえつけ、社会の息苦しさ、自分の中の怒り…そのエネルギーをなんとか動きに結びつけて徐々に徐々に踊りとして表現していくと、ニュージーランドのハカのようなパワフルな足踏み、唸るように低い声で奏でるリズム、そしてわたしがここ10年近く惹きつけられてやまない、愛知の山奥の神楽「花祭」の舞の所作にもつながっていきました。力強いその舞をイメージして体を動かしていると、ああそうか、火の力がうまく昇華すれば Dancing Warrior(踊る戦士)のパワーになるんだ。その攻撃性は力強く守ってくれるパワーにも変容するものなのか、ということが体感できたのです。かっこよくて力強くて荒々しい動きが自然と自分の体に現れてきます。

西:WATER <水>で踊ったときには、途端に過去の被害者の自分が現れて無力になっていきます。でもそこに光を見出そうとして踊りはじめたときには、わ〜っと止まらなくなるほどにハッチャケて踊れちゃう。アメノウズメが素っ裸で踊ることで神々を笑わせて天岩戸を開けたように。ブラジルの土着信仰カンドンブレで大人気の海の女神イエマンジャがゆったりとしたダンスを踊るように。フラのエネルギーも感じます。女性らしくて華やかで波をたゆたうような動きがあふれてきます。

そしてその火と水のエネルギーを感じた後で、南:EARTH <地>のもとへ。
全てはもうここにある。父なる太陽と母なる大地を自分が媒介となってつなぐことができる。そして北:NORTH<風>へ行けば、すべてを静かに見守る自分と出逢うこともできる

自分のなかにあるさまざまな感情や今までの経験や傷と、それを癒してくれる内なるシャーマネス。踊りの中で彼らと出逢い、それぞれのエネルギーと、その違いを体感していきました。

御園花祭の大好きな時間帯(深夜〜夜明け)に現れる おさんど。男性が舞う女性(オカメの面)の舞。男性を押し倒し襲いかかる。動きがキレッキレなのでいつ撮ってもブレブレ。

なぜ、お祭りを歩き続けてきたのだろう?

火のエネルギーのときに湧き上がってきた神楽舞。自分で火のエネルギーを踊りまくる中で気がついたことは、わたしが見てきた日本の祭りや神楽は「男性性」に偏ったものが多いなあということでした。舞の継承者もほとんどが男性でしょ、男性しか舞えないというものがほとんどのはずです。祭りによっては女人禁制もあります。役として女性が舞う神楽もほとんどなく、巫女舞くらいなのでしょうか。

わたしはお祭りが大好きで、日本全国、世界で、ずいぶんたくさんのお祭りを見てきました。その中に何を見てきたんだろう?と踊りの中で問えば、男性性だったんだなあとハッとしました。そのホレボレするようなかっこよさや力強さを求めて、僻地のようなところへまでも。極寒の男鹿半島になまはげに逢いに行ったり、トカラ列島にボゼ、硫黄島にメンドン、愛知の山奥の鬼…仮面神はみんな男。世界のそれらを思い出しても、男。仮面を被る女性の舞ってほとんどないのではと思います。

それはわたしの場合は、父親から植えつけられた世界とも重なってきます。
お金、組織、枠組み、押さえつけ…今までわたしが異常に反応し、抵抗してきた世界。でもそこに、それが火のエネルギーをまとった<medicine>に昇華したときに見える「踊る戦士」をわたしは見出そうとしていたのかもしれません。

そして、なぜ男性がまつりに取り組むのか。
山伏修行とか滝行とか火渡りとか、男性は修行が好きなイメージもあります。
ある女友達は言いました。

「女性は毎月生理もあるし、妊娠したり出産したり、自分で命を育むこともできる。エネルギーを自分でつくり出すことができる。男性にはそれができないから、修行するのかも。」

火のイメージを身にまとって舞ったときの湧き上がるエネルギー。水のエネルギーで舞ったときには、そのエネルギーの生産はたしかになくて、ただただ流すという感じ。この男性性と女性性を自分の中に共存させることができたらいいし、世の中もそうなればいいと思うのです。

そして現在、日本の多くのお祭りは後継者不足に悩まされ、かっこいい舞に魅せられた女性たちが継承者になっていくという事例も増えてきました。男性性の世界に女性が入ることで芸能の質は変わるかもしれないけれど、「調和」ももたらされるのかもしれない。そんなふうにも思えてきます。

また、盆踊りのようなものは男性性全開の祭りとは違う質です。輪になって踊ることはまさに「調和」のエネルギー。どちらにしても、日本人はむかしむかしから「まつり」を真ん中にコミュニティをつくってきた民族なんだと、最近のわたしは考えています。

土の上に火、その上に湯、そして湯気。地 火 水 気 のエレメントがそろう花祭に知らず知らずのうちに惹かれていたんだなあって、自分が舞うことを通じて、そして何年か経って、やっと体感しつつあります。

チンドン屋として歩き、
自らまつりをつくり出してきたこと

そしてわたしがハタチくらいの頃から続けてきたライフワーク、チンドン屋。
最初は単純にその音楽や存在感に惹かれてはじめたものだったけど、その「日常と非日常をつなぐような存在」に魅せられて、これまでたくさんのまちを歩いてきました。

20年近くやっていると、また違ったことが見えてきます。最近はまちで親子を引き連れてちんどんパレードをすることも増えましたが、明らかに、分断された世界をその存在や音で揺らがし、境界をぶち壊して曖昧にし、カオスをつくり出す、ということをしているんです。突如、日常の中にまつりの空間を生み出します。

「マツリ」という言葉の響きには【「間」(マ)を繋(ツな)ぐ理(ことわリ)】という意味が込められているとされ、それは「分断されているものを再結合させるチカラ」といえると、先日、尊敬する先達・木戸さんが教えてくれました。

わたしは自分がチンドン屋としてまちを歩くとき、知らず知らずのうちにこれをやっていたんだと…今になって気づきました。分断から調和へ。チンドン屋という道化の姿を借りて、わたしは20年近く前からまちの中に「調和」を見出そうとしてきたのかもしれません。

代々木上原の路地裏に突如あらわれたチンドン屋、そして子どもがワラワラ。このまちにこんなに子どもがいたんだ!と驚きの眼差しと笑顔が向けられた。

男性性と女性性の調和から
見える世界って

ひとはどうしても一人では生きていけなくて、周りのひとと助け合いながら生きていく生物。いや、ひとだけでなくすべての命や自然、先祖たちと相互作用し、生きています。日常で忘れがちなそれを、毎年の祭りを通じて認識する。祭りは一人ではできないから、みんなで力を合わせて、自然や先祖たちとのコラボレーションも必要です。マツリというのは大いなるものとつながり、それを体感し、脈々と引き継がれてきた奇跡みたいないのちのリレーに自分がいるという尊さをも教えてくれる装置なのでしょう。

分断や対立ではなく、力強い男性性を「守ってくれる、頼りになるエネルギー」として受け入れ、その安心の中で、それぞれがありのまま、そのままでいられるおおらかさを爆発させて女性性のエネルギーで自由に遊びまわる、調和の世界。

化石燃料も底をつき、アマゾンは燃え、地球はSOSを出している。経済優先はもう終わり。地球に身をゆだねて身のほどに合った暮らしに戻っていく。人類は、その発達した知能を、これからは「より喜びに満ちた人生」に向けてつかっていくとき。

分断から調和へ。
まったく自分の望んだことではなかったけれど、わたしは男性性の世界を押し付けられて生きてきた。だからこそ、そのパワーが表現として爆発したときのエネルギーや魅力を十分に知ることができたのかもしれません。そしてそのぶん、女性性のやさしさや包容力を世界に取り込んでいくことができるはず。わたしだけのやり方で。

男性性と女性性の調和を意図して、わたしは今日も世界を歩き、誰かと話し、まつりをつくり、分断されたこの世の中をつなぎ合わせていきます。

れみちゃん、いつもいい写真撮ってくれてありがと〜ぅ Photo by Remi Fujii

““踊ること” で体感した「まつり」と「男性性 / 女性性」〜Movement Medicineリトリートからの学び その2” への 2 件のフィードバック

  1. たいへん興味深く読みました!はじめまして。東栄町から2時間くらいのところに住んでいるのに、花祭りは行ったことがなく、体感してみたくなりました。
    私もMovementMedicine浜松で参加し、風の要素と自分のダンスを踊る勇気持って帰りました。ブログにてyumiさんの記事をリンクさせてもらいました。いつかダンスご一緒しましょう。

    1. 三沙代さん、はじめまして。コメントとっても嬉しいです。三沙代さんのブログも読ませていただきました!わたしが参加したリトリートにも何人か、浜松にも行かれた方がいらっしゃいましたよ〜 
      ぜひ、東栄町の花祭にいらっしゃいませんか?11/9-10の御園地区は仮眠室(雑魚寝ですが・・)もあるのでお子さん連れでも行きやすいですよ。わたしももちろんいます。
      そして東栄町では9月のはじめに、子育てに関するトークもさせてもらったんです。(http://cotoconton.com/event-toei/)
      わたしにとって縁の深い場所です。ちょこちょこ行っていますので、お会いできる日を楽しみにしていますね〜!

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